むなしさとともに

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自灯明、法灯明

自分は、どこの寺院にも所属していない。

 

多分ずっとそうなのだろうと思う。

 

寄っかかりたくないというか、依存したくないというか。

 

お釈迦様はおっしゃられた。筏の例え。

 

船は岸辺へ着いたら、船はそこに置いて歩いていく。いつまでも船の周りでたむろしなくていい。

 

船にしがみついているというか、

むしろ船に執着して、歩いていこうとしない。

 

このことを戒めるために、自灯明、法灯明と仰られたのではと思っている。

 

 

即ち、体当たりしていきなさい、ということだ。汝自ら当に知るべしと世自在王佛が法蔵菩薩に仰った言葉にも同じ響きを感じる。

 

信心歓喜乃至一念、信の一念の際、大いなる喜びが有る。

 

菩薩は四十一地に至った時、初めて不退の位につくと云われる。

 

歓喜地とも云われるが、この位に達した時、

菩薩は佛に成ることが確定する。ずっと求め続けてきたことが成就するのだから、喜びはひとしおなのだろう。

 

しかし、喜びは永くは続かない。寧ろ、喜びを握るので、かえって根深い分別の心に成ってしまう。しかも、たちが悪い。

 

喜びを捨てて、諸々の衆生と共に生きようというか、個人的な心境よりも、そちらの方が大切なことであったと気づかされ続けるというのが、

 

大乗という名前の本意に相応しいと思うのである。大事なのはみんな助かるということなのだ。

 

やはり、此処は娑婆といわれる厳しく、寂しく、むなしい世界だと感じる。

 

ハイデッカーという哲学者は、われら人間は時間と空間に放り出されたような存在だといわれたそうだ。

 

故に、必ず何かをせざるを得ない、と。われらの悩みの大半はこうだ。

 

どうすればいいか?

 

老病死は問題にするが、生まれたことから、老病死が派生していることに気づかない。

 

そして、生まれるのは、十二縁起でいわれるところの無明を因とするのだ、と仏陀はいわれる。

 

これが苦悩の根本であり、これを抜断するとうのが、阿弥陀という仏の眼目なのである。

 

そして、この阿弥陀という仏は自分の名を称えさせ、聞かしめることを以て、衆生の上に信心としてはたらこうとされている。

 

故に、釈尊阿弥陀仏もおっしゃるのだ。

 

無量寿仏の御名を称えよ、と。

 

もはや自分に一つの道も残されていない。余裕がない。何をどうやってもこの自分を持て余すよりほかない。

 

故に、二尊の仰せに帰し、念佛を申す。

 

これだけがわが灯明であり、法灯明である。

 

自分に信心は無い。信心が無いと知らしめて

下さる如来のはたらき。

 

矛盾は何もない。

 

南無阿弥陀