救いは常に現前の救いでなくてはいけない。救いの予約が救いではない。
救いというのは「今、ここに」、という現前の救いでなくてはいけない。
救われようのないような現実を、そこに自分の唯一の生きる道があるんだ、と言っていうならば現実をうばい返すんです。
救いというのは、放棄せざるを得ないような現実をうばいかえすことですね。
その道を念仏ともいい、誓願、誓願不思議というのはその救いにあずかったものが自ら誓願不思議というわけです。
(歎異抄講義録Ⅱp27、和田稠先生講述、片州濁世の会)
この文章は、数年前、たまたま手にした本に書いてあった一文であり、感銘を受けた文章です。
やっと全巻手に入りました。
特に
「救いというのは、放棄せざるを得ないような現実をうばいかえすことですね」です。
実際、生きている中で、何度も理不尽なことが起こるわけです。
職場の人間関係も容易ではない。価値観が違うので、折り合いをつけなければならないし、摩擦や行き違いも起こる。気を遣わなければならない。
親族との関係も難しい。自分の場合、親との関係は常に上下であり、自分は下なのである。
自分が4歳の頃からむなしさを抱えていた、とか、自分が真宗に道をたずねていることも一度も話をしていない。というか、できない。
本当に価値観があまりに違うのです。なので、今生でわかり合うことはないと思っています。
そして、自分の煩悩。煩悩がかたちをとったものがこの身でありましょうから、まぁ、激しいものです。やまないことこの上ないです。
貪瞋痴。これらに突き動かされて生きていて、しかも、これらから離れることができない。
どこにも救いがない、どうしようもない。
自分で自分を変えることができない。
ここに声が聞こえる。
だからこそ、念佛を申せ、と。
念佛に帰る、何度も何度でも帰る。
自分にとっては、これが捨てざるを得なかったむなしい生存において、発見した唯一の道であります。
実は、生き返った、という感覚があるのです。変な話ですが、それから九年が過ぎ、やっとよろよろ歩いているようなものです。
むなしさはなくならない。
頭が良くなるわけではない。
煩悩や我執もなくならない。
老病死を具足した生存もそのままだ。
しかし、南無阿弥陀佛がまします。
自分が南無阿弥陀佛を忘れても、南無阿弥陀佛は自分を忘れてくださらない。
南無阿弥陀佛に今ここでこの身のまま、助けられて浄土に往生させて頂く。
これだけであります。
普通の人として生き、普通の人として死ねばいいのだ、と木村無相さんは仰ったと聞く。
ありがたい言葉だと思う。
何とか8月月内に投稿が間に合いました。少しずつ再開できればと思っております。
南無阿弥陀佛