むなしさとともに

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無明を破る

無明の闇を破するゆへ 智慧光佛となづけたり

 

一切諸佛三乗衆 ともに嘆誉したまえり(浄土和讃

 

釈迦如来は、一切有情の苦悩の根本原因を「無明」の故にと仰った。

 

この無明は深淵であり、これによって、無始乃至今日今時に至るまで、

 

流転し続けるのであると仰る。流転とは死んでからだけではない、

 

常に我が心は六道を経巡っているのである。一時も休むことなく。

 

この無明を破ってくださるおはたらき故に、阿弥陀如来のことを、

 

すべての諸佛、声聞、縁覚、菩薩方が智慧光佛と褒め称えられるのである、

 

親鸞聖人は仰った。

 

佛法は対処療法ではない。生死流転の根治を教えて下さる法である。

 

法とは道理であり、摂理であり、普遍であり、平等であり、時間と空間を

 

貫くものである。南無阿弥陀佛とは出遇うものである、と有縁の先生が

 

たびたび仰ってくださる。そのことを味わうのである。

 

南無阿弥陀

本当に生きることが難しい

むなしさは、どうにもならんですね。

 

おそらくは、すべてに意味や価値を見出したいのでしょう。

 

しかし、如来は汝は迷いの凡夫なり、と仰る。

 

ここは迷いで、あちらは真実を求める、とかいうのではなくて、

 

一切が迷いであると仰る。一切とは例外がない、すべてであるということ。

 

色受想行識と仰る我が身で感覚できるすべてが迷いである、と。

 

心は三毒我執無明。

 

身も心もその起点は無明。

無明とは迷いの根源、あってはならぬ煩悩である。

聖徳太子もこの点を何度も注視されている。

 

あってはならぬ煩悩を抜断すると仰るのが、如来法蔵である。

 

無量寿経には、何度もこのことを仰ってくださる。

 

人間には支えがいくつもあって、それぞれに助けてもらいながら生きている。

 

間に合う間はいいんだ。本当に輝きが力を与えてくれる。

 

光を、希望を、与えてくれる。それはいのちかもしれないし、

 

言葉かもしれないし、友かもしれないし、先輩かもしれない。

 

親かもしれない。兄弟、愛する人、家族、地位、名誉、財かもしれない。

 

その相は無量無数だと思う。人は業が違うから、憑みにするものも

 

業に引かれて違うと思う。

 

でも、その支えを如来は仰る。

 

一切は無常敗壊、退転するものであるぞ、と仰る。

 

親鸞聖人は、生死無常の理とお手紙の中で仰っている。

 

すなわち、必ず崩れるものである、ということ。それが崩れてしまうと、

 

また他のもので自分を支えようとするけれども、それが自分を支える大地に

 

ならない。どれも大切だが、本当に自分が支えを必要としたときに、

 

支えにならない。心が全く通わないのだ。身を通したことは、もう

 

どうしても否定することができない。否定する力が途絶えたのかもしれない。

 

もはや立ち尽くすばかりであった。何一つ間に合わない。どうにもならない。

 

人間は、どうしても一度ここをくぐらねばならない。くぐらねば、

 

本当のことが分からない。

 

(171005追記:くぐる、というと自力の表現のように聞こえるかもしれない。

 

ここで言いたいことは、初めから有限な存在として生きている、ということで、

 

問題は生まれたときから具足している。具足とは一体であり、離れないという

 

こと。問題を孕んでいるにもかかわらず、都合の悪い真実に目を背け、

 

何とかごまかそうとしている。これが人間の相だと味わう。故に、

 

真実に出遇う際は、人間にとっては、否定を通して響いてくる、と頂く)

 

しかし、その暗闇の只中を貫く一筋の光。

 

それが本願名号である。その出遇いは聞こえる、という念佛の相をとって、

 

わたしに実現する。

 

そこからはじめて、あぁ、この自分を生きていこうという覚悟が

 

生まれた。凡夫こそまことに自分のことであった。

 

凡夫を逃げずに、正面から引き受ける。自分の力で引き受けるのではない。

 

本願の大地が担ってくださるからこそ、である。我の力なぞ微塵もない。

 

南無阿弥陀

 

ふと教わった。無常は一切平等の根拠である、と。

 

平等の根拠は二つある。無限大悲と無常の相と。こんな風に感じた。

 

無常にあらざるものなし。すべて無常であるが故に、一切は平等である。

お同行の言葉

土徳と善知識に育てられたお同行の言葉は、

 

たとえ理性的ではなくても、しみこむように感じる。

 

仏法を聞いたら、ちっとはましな人間になれるかと思っているが、

 

どうでしょうか、と尋ねたら、先生は「あんたは諦めなはれ。

 

ただ念佛申しなさい」と仰ってくださった。

 

長い月日が流れたが、今になって、先生に言われた言葉が

 

とても有難い、と仰っていた。

 

ちっともましになれない。何にも変わらないし、変われない。

 

どうにかなると思っていたが、どうにもならない。そこに一つの悲嘆があり、

 

断絶がある。そこに聞こえる念佛の声。

 

その声が聞こえたならば、もはや法蔵比丘に文句が言えぬようになる。

 

何も言えない。疑おうにも疑えぬ。信じようという心さえいらぬ。

 

ただあぁ、この南無阿弥陀佛に往生させて頂くばかりである、と

 

何度でもそこに引き寄せられ、念佛を聞かされる。

 

あぁ、この本願の尊さよ。あぁ、諸佛証誠のありがたさ。

 

釈迦如来の深い佛恩、親鸞聖人、先達のご苦労。

 

弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞いちにんがためなりけり。

 

信じるとか信じられぬとか、助かるとか助からぬとか、わが身に付属する

 

一切は無用。応に如来如実の言を信ずべし、と仰った、親鸞聖人の

 

仰せ、有縁の善知識、諸佛のお言葉にただうちまかせるのみ。

 

南無阿弥陀