人間は迷いの存在である。
よって、限定的な存在である。
限定的とは、有限であることを指す。
有限であるということは、思い通りにはならないこと。
思い通りにならないことを(苦)という。
サンスクリット語でdukkhaという。
僕らは思い通りに進んでいくことを快とする。
逆に思い通りにならないことを不快とする。
どんなに努力しても叶わないことがある。
どう考えても気力が湧かないことがある。
自分の気持ち一つ変えられない。
条件が整わなければ、物事は成り立たない。
そして、身に覚えのない理不尽さ、避けられない世の中の残酷さに打ちひしがれることが起こる。
招かざる客の来訪を受けることもある。
どれだけ手を伸ばしても届かないものがある。
人間とは限定的な存在であり、
自分はその人間なのだと思う。
人間には人間の分限があり、その分限のことを凡夫という言葉で仏教は表す。
この凡夫という分限を迷失してきたから流転を重ねてきた。
如来回向によって、凡夫を取り戻し、流転を流転のまま超える。
それを表すのが、正定聚不退転、或いは歓喜地という言葉であり、
親鸞聖人の教えは現生不退に大きな特色がある。
つまり、この本質は、決して手が届かないことがあってよいのだということ。
わからないことがあって構わないということであり、
それが思い通りにならなくていい、苦悩の存在のまま助けられていくということだと考える。
できない、という言葉を使うよりも、
届かない、という言葉が、自分が感じたことを表すのに適切だと思った。
南無阿弥陀佛