むなしさとともに

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聞薫習

更新の頻度が遅くなってきており、見に来て下さる方には申し訳なく思っております。

 

遅くなっている理由は、とても忙しい。これだけです。

 

ツイッターは短文なので、その時に思うこと、感じたことを投稿しやすいのですが、ブログのようにある程度考えながら文章を打つのには、

 

時間的余裕が必要です。今、平日にはほぼ余裕がない状況です。

 

期限の決まった課題がこの一年、等間隔で配置されており、それらを片付けていかねばなりません。なので、当面は一ヶ月に二回更新できれば及第点かと思うので、そんな感じでお付き合い頂ければ幸いです。

 

さて、表題の内容に入ります。

 

今日、お寺へお参りしてきました。

 

最近は、聴聞の回数ではなく、この先生からお聞かせ与りたいという先生に絞って、お参りしています。

 

お寺ではお香が焚かれています。自分の家には本尊も仏壇もないため、線香も焚きません。

 

そうすと、香りの有無に気づくわけです。しかし、その場に身をおけばすぐに香りに慣れて気にならなくなります。

 

で、帰途に着くと、衣服や頭髪にお香の香りが自ずと染みついています。

 

西方指南抄という親鸞聖人が法然聖人にまつわるお話をまとめた書物にも、このことが記載されておりますが、

 

薫習ということが本当に大切だと思うのです。

 

なぜ聴聞に極まるといわれるか?

 

自分なりの考察としては、聴聞の場に身を置くことで、自ずと大悲が染みついて下さるのではないかと思うのです。

 

大悲とはすなわち南無阿弥陀佛です。

 

聴聞で聞くのは、南無阿弥陀佛のいわれといわれます。すなわち、説かれている仏法の目当ては誰なのか、ということです。

 

身に引き当てる、当事するとは、自分ごととして聞くということです。

 

煩悩具足の凡夫とは誰のことか?

 

心口各異言念無実であるのは誰か?

 

不要不急の事柄を争っているのは誰か?

 

すなわち、今ここに居る自分が、これらに該当するのであります。

 

これらは、自分の目が目そのものを見ることができないように、智慧に照らされなければ解らぬことです。

 

大悲や智慧は方便を通してわれらに接近します。

 

それは先生のおすがたかもしれないし、お同行かもしれないし、場そのものかもしれない。

 

ただ、言えるのは、諸仏の伝統、自分に先立って聴聞して下さった方々が確かにおられたから、今日の自分が、聖典の言葉を耳にすることができたと思うのです。

 

聴聞の場にはすべからく大悲のお香が焚かれている。昔の方は、仏法は毛穴から入って下さるとおっしゃったそうです。

 

すなわち、このお香は聞薫習、聞くことを通して自ずと染みこんでくださり、時を得て、無根の信をわれらに発起せしめて下さると考えます。

 

南無阿弥陀