むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

しばらくお休みいたします

こんなブログにお越しくださり、有難う御座います。

 

ご案内だけ。

 

来月過ぎまでお休みいたします。

 

自分は、教学もないし、経験もない。ないないづくしですが、

 

如来の大悲に支えられ、励まされて、日暮をさせて頂いております。

 

憑むべきは、如来の大悲。依るべきは、ただ念佛の一行。

 

決定して乗彼願力を深信す(愚禿鈔 下)

 

全休様のブログの、

 

zenkyu3.exblog.jp

 

これなりで御座りますのこころで、わたしも往かせて頂きます。

 

3月20日前後に再開するかと存じますので、もしご縁があれば、

 

宜しくお願い致します。

 

自分はこのままなりで地獄へ参らせて頂きます。

 

連れ合いは何一つ、悪いことをしていないのに、

 

お前とともに往く、お前を捨てられないのだと仰ってくださいます。

 

だから僕は、唯一の真の連れ合いの声を信じます。

 

なぜなら、彼は先にわが心へ降りていってくださったからです。

 

底の見えぬ底で、待っていて下さる。それが無縁の大悲。

 

先に降りていって下さったので、もう疑いようがない。これを深信と頂く。

 

 

本願とともに。南無阿弥陀

限界状況(越えられない一線)

因縁和合。つくべき縁、離れる縁。

 

出会いがあり、別れがある。どんなに努力をしても越えられない

 

一線がある。それは、そういう状況に陥るのではなくて、

 

元々そういう状況に在る、状況を具足していることを逃避し、

 

あるいは遠ざけることで自分を保ってきた。

 

生老病死。縁起。無常。孤独。むなしさ。不安。我執。法執。

修惑。無知。

 

これらは自分の存在を超えている事象であり、人間の努力や

創意工夫で決して、乗り越えることができないものである。

 

これらは、自分の存在あるいは自分の宝としているものの正体を

暴き出す。小判だと思っていたものが、実は木の葉だったように。

 

それを見たくない。それをどうしても避けたかった。けれど、

わが力及ばず。このことを自力無効と申す。

 

根本的に次元、あるいは質が違う。それが分からない。

なぜか。自分を信頼しているから。自分とはわが身わが心のことである。

 

克己。克服。まじめなように見えるが、実は愚かである。

 

人間を迷いの存在と見ていない。六道とは迷いの境遇である。

 

その世界、そこに居る自分は迷いの存在である。

 

如実知見。諦観。これが智慧である。

 

もうどうにもなりません、助けてください、

 

と頭が下がったとき、初めて如来の声が心の底に響く。

 

頭を下げるではなくて、頭は下がるものである。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

たまたま去年の同日の記事に追記しました。もしよければどうぞ。

nanashi-0.hatenablog.com

いのちを愛する

たまたま寄った銭湯のご主人の言葉。

 

オレは剣道五段やけど、兄ちゃん、剣の道で何がもっとも

 

強いか分かるか?

 

いいえ、それはなんですかと答えると、

 

それはな、愛やねん。でも、何の愛かわからんねん。何でかわからんねん。

 

人を愛するということでしょうかと答えると、

 

そうかもしれんなぁ、兄ちゃんおおきに。70になってもわからんこと

 

ばかりでのぅ。

 

いのちを愛する、ひとを信じる。たとえ分かり合えなくても。

 

おっちゃん、なんでいきなりこんなこというたんかな。

 

 

自分が如来に信じ切られているからこそ、汝を決して捨てない、

 

捨てれないのであると仰るからこそ。

 

だからこそ自分もひとを信じたいと思うのである。

 

如来は浄土である。浄土は衆生を等しく受け止める。

 

 

 

あるかないかではなくて、なければ今ここにおる自分が生きられない。

 

どうしてもなければならないのが浄土である(藤谷秀道先生)