むなしさとともに

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歎異抄聴記③欲生

しかるに、真実信楽が法爾の道理によって内に欲生を開き、外に開くのではなく、内に開く。内に開くのを等流という。(中略)他力信であるかという自覚自証の原理は願にあり、欲生にある。(中略)真宗学の問題は欲生の問題である(歎異抄聴記p41)

 

願成就の信であったのか。

 

願成就のお念佛であったのか。

 

念佛の信心の因は如来の本願、即ち、

 

決定して汝を必ず往生成仏せしめん、

 

我能く汝を護らん、の大悲欲生の御心。

 

煩悩具足の汝よ。我已に遍くそれを知る。

 

知る故に決定して悲心抜苦せずばおかない。

 

佛の願いが今ここに成就下さり、お念佛せしめ、お念佛聞かしめ、お念佛を信じせしめて下さる。

 

タノメタスケル、我常に汝と共に居る、との如来勅命の仰せが南無阿弥陀佛。

 

助からぬ身に必ず助けて下さる本願念佛の無限なる大悲が常に垂直不断に降り注がれている。

 

絶えずお念佛に帰りなさい。

 

これが曽我量深先生の御心でもあるのだろうと感じる。

 

南無阿弥陀

 

※現在、仕事が繁忙であることと、この御本が非常に難しいことから、更新のペースが遅くなりがちかと存じます。ご容赦下さい。Twitterはわりとやってます。長文になるとまとまった時間が要りますね。では。

 

 

 

 

 

歎異抄聴記②機の深信

機の深信は法の深信が根源で、法から機を開くについて、二種深信ができる。ゆえに、二種深信としては、機の深信が主なるものである(p32-33)

 

今生では信が発起したとしても、佛になることはない。これは、ある意味の断絶を表す。つまり、この身で助かることはない、ということ。

 

昨日、座談会である人が八正道のことを質問していた。先生は、真宗でいえば正見ということが信心のおはたらきであり、中心だろうと仰った。

 

自身において信心の智慧とは如何なることを示すのかと考えた。

 

これは、決して助からない者が自分であると照らされることだろう。

 

即ち、僕の言葉で言えば、十方衆生といってもその最後が自分である、と。

 

僕の後ろには誰も居ない。最後の衆生が僕である。

 

唯除五逆誹謗正法、一闡提、断善根、未生怨とは残念ながら自分のことであろう、と。

 

助からぬ者というところに、照らして下さる光が届いている故に見える。

 

光がなければ、暗がりに何があるかも見えない。闇を闇と知らしめて下さるのが智慧であり、正見であり、光明である。

 

凡夫が自分を全くの凡夫と知らされるのが、佛様が正見してくださっているのあります。

 

必ず片方の足は地に着いていなければならない。法悦という言葉があるように、歓喜は酔いやすく、また冷めてしまうものであります。

 

念佛に何度も何度でも立ち帰らせて頂くことこそ肝要でありましょう。

 

南無阿弥陀

心、言、行

4月にはいり、新しい期か始まりました。 

 

12月末から1月を迎える新年よりも、

 

3月末から4月に入る時のほうが、季節が春に

 

なることと相まって、新しい年という感じが

 

します。

 

最近思いますことは、準備が大事なのだなということです。

 

余裕をもって、事前に、丁寧に準備ができればたいがい変なことにはならない。

 

それから、基本を押さえること、です。

 

最近は仏教書を読む頻度よりも、実用書を見たりすることが多いです。

 

僕はあまり言葉を信じません。信じられる言葉があるならば、その方の行を確認した上で、行と方向を一つにした言葉でしょうか。

 

年を重ねているので、単純に信じることはできません。やはり、裏付けがないと。

 

甘美な言葉があったとしても、鵜呑みにはしません。自分で確かめてから判断します。

 

南無阿弥陀佛とは行にまで成って下さった如来と体解します。大悲のおすがたが称名念佛であり、南無阿弥陀佛であります。

 

如来の骨折り、念佛を通した直のご教化、お育てを感じます。

 

心を言葉と行で一貫して表現し続けることができる人が居るとするならば、菩薩大士と呼んで差し支えないと思います。

 

まとまりがありませんが、歎異抄聴記とは別でたまに感じたことを自分の言葉で綴りたいと思っています。

 

南無阿弥陀