むなしさとともに

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競争、喧騒との対峙

人間である以上、社会との関わりを断つことはできない。

 

社会とは、他者との関係性である。

 

他者との関係性とは、やりとり、である。

 

組織に属していると、競争は避けられない。外部との競争はもちろん、内部でも然り。

 

そこには人間関係や感情、相性、価値観の相違などが入り混じる。

 

必然的に近しい年齢の他者と比較されるのは避けられない。

 

評価も評価者の主観や先入観が混ざるので、何が正しい基準なのかわからない。

 

何が言いたいかというと、静けさが欲しいのである。

 

静けさとは、平等であり、自由であり、独立である。

 

他者から奪わず、他者を傷つけることがない世界。

 

比較ができない世界。共に助け合い、励まし、尊敬し、尊重する世界。

 

奪わずにはおれない、傷つけずには生きていけない存在として、身を受けているそのこと自体が、考えざるを得ない、立ち止まらざるを得ない気がする。

 

この世界に属する以上は忍耐せざるを得ない。

 

思い通りにならないからだ。

 

 

 

なぜ、そういうことになるのか。

 

やはり、存在として脆弱だから、ではないかと思う。

 

脆弱性が煩悩であり、身、すなわち、かたちをとらざるをえない、ということなのだろうか。

 

分からないけれど、有限性を抱えている今は誰を、何をも助けることはできないし、自分さえ始末ができない。

 

故にわが名を称えよ、という如来の仰せが至り届いてくださっており、もはや、ただ念佛の一行のほかによりかかり、より憑むものがないのであります。

 

自由、平等、独立、寂静、寂滅、こういうものをずっと探してきた気がします。

 

最後に、一方でこうも思います。

 

かたちなきものがかたちをとることには、痛みが伴うのではないか、と。

 

そこには自己否定をしてでも、心を表現したい、せざるを得ないほどの大悲があるのではないか、と。

 

 

 

 

 

 

佛の仰せ

想起。

 

やっと出遇うべきものに遇えた。

ようやく自分の願いを思い出した。

 

一切の悲しみや痛みが終わることが、

自分の根源的な願いである。

 

差異がなく、差別もない。

 

貧富もなく、美醜もない。

 

自由と連帯と尊厳があり、争いや憎しみは言葉すら存在しない。

 

大悲と智慧に満ち溢れている世界に生まれたい。

 

自分は全くの凡夫であり、煩悩の身から一歩も離れることができない。

 

昨日も首筋に何か感じたので、指で触れると、虫が居たらしく、指に潰れてしまった。

 

意思はないけれど、過失であろう。

 

煩悩とは無限の過失かもしれない。

 

苦諦。集諦。煩悩ある故に一切が苦である。

 

ただ、浄土真宗の念佛の教えではこれでは終わらない。

 

ここに無限を超える無限大悲まします。

 

だからこそ、汝を浄土に生まれさせ、必ず佛の悟りを開かせん。我が名を称えよ、という如来の仰せまします。

 

如来の仰せが南無阿弥陀佛。

 

仰せに呼応し、念佛を申し、聞く。

 

浄土真宗の念佛は聞名である。

 

佛の名をひたすら聞くのであります。

 

言葉のすがたをとってまで寄り添い慈しみ大悲下さるほとけさまの願心を聞くのであります。

 

その大悲がわが心の底に至り届き貫かれて無根の信心が発起せしめられるのであります。

 

煩悩具足の凡夫故に弥陀の願心に依って往生決定なのであります。

 

佛様が往生決定と仰る故に往生決定。

 

僕はただの凡夫。浄土もわからぬままに

 

念佛を聞かしめられるばかりで、他に

 

特別なことがあるわけではないのです。

 

お互いほとけさまから愛され信じ切られているともがらであり、そのことを十方衆生と申します。

 

 

不退の位

摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしませ候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり(ご消息集 親鸞聖人 p590大谷派聖典

 

助かるとは、どういうことか。

 

実は助かるのではない。

助けられて往生するのである。

 

助けられることを摂取不捨という。

 

 

摂取不捨を不退という。

 

何が不退なのか。不退に二つの側面あり。

 

一つに、自身が決定して凡夫であるということ。

 

二つに、だからこそわが名を称えよという

 

大悲の誓願がかかっている故に必ず助けられ

ること、

 

その証が今、口に称え、耳に聞こえて下さるところの南無阿弥陀佛であること。

 

もはや、念佛の一行のほかに道なし。

 

諸仏善知識のおすすめ下さる、この念佛往生の道に

 

全託し、赤子丸腰の如く、ただ佛の名を称え

 

させて頂くばかり。

 

 

 

 

 

このことを行者のはからいあるべからず、と

仰られていると感ず。

 

決定とは動かないということ、一、ということ。一故に躊躇なく、戸惑いもなし。

 

見えているのは、目のはたらきではなくて、

光が至り届いている故に、見えるのであります。