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歎異抄聴記⑩まことの言葉

だいたいにおいては聖人は法然上人のひざもとへいかれる前に法然上人のおおせとはほとんど同じところまで進んでいられたにちがいない。ただ法然上人の一言を聞けばよい。なにも複雑なことを聞く必要はない。ただ一言を聞けばよい。その一言とは「ただ念仏して」という一言である。その一言を聞かんがために法然上人をおたずねになったのであろう。そしてその一言をきかれたために、一生涯法然上人の恩徳を身にしみて忘れられなかったのであろう。たった一言を聞かんがために、ご開山聖人はながいあいだご苦労された。またたった一言を聞かしめんために、法然上人はそのひざもとへきたわがご開山聖人を待つために法然上人は一生ご苦労されたのであろう(歎異抄聴記p156 曽我量深師 東本願寺出版部)

 

 

 

親鸞におきてはただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり。

 

歎異抄第二条の親鸞聖人の言葉です。

 

僕自身の道を決定して下さった言葉、僕が忘却しても、僕を忘却して下さらなかった言葉、或いは、ずっと響き続けて下さる言葉であります。

 

転職、諸々の出来事を通じ、世間には天才が沢山居ること、同時に存在としての自分の能力のなさ、限界を痛感し、適応障害に陥り、ずっと学んできた会計も捨てようと思いながらも、ではこの先どうやって生きていけばいいのか、とただただ生きていた時期に、ふと甦ってきた言葉なのです。

 

ああ、弥陀に助けられなさいという言葉が在った、と。親鸞という方の言葉があったなぁと。

 

 

だから僕にとっては、特別なお言葉であり、何度も何度も立ち帰らせて頂く言葉なのです。

 

やはり善知識というか、先立って道を求めておられる方の言葉は極めて大事であり、その方々に縁があるか、或いはその時に自分にその言葉を感受できる度量が備わっているかによってほぼ決まってしまうように思います。

 

そういう意味では縁熟というか時節到来というか、タイミングのようなものも大きいと思われます。

 

しかし、本物というのは何でも、最期まで残るものです。

 

友もそう。見返りを求めず、ただそばに居てくれることがどれだけありがたいか。逆境の時に真価が問われるのです。

 

本当の友は誰かなのかが明瞭になる、見えてくる。

 

その人を大事にしなきゃ、ですね。

 

叱ってくれる、教導してくれる人がどれだけ居るか?叱られることは相手にはメリットはないのです、こちらが嫌がるのは判っていても敢えて直してくださるのですから。

 

 

本物は最期まで滅びぬのです。絶望に身を通して学んだことです。

 

 

そして、真の実在の不滅の言葉が南無阿弥陀佛なのです。

 

佛は衆生から逃げぬのです。常に真向かいであり、共に泣いて下さります。

 

浄土真宗という教えは阿弥陀仏の本願と釈迦牟尼仏(よきひと、諸仏も含む)の勧進によって助けられる教えです。

 

【助けられる】といっても、今ここでこの身に称えさせられ、聞こえて下さる念佛、南無阿弥陀佛が助からぬ存在、すなわち衆生の大地、揺るぎなき大地となり、そこを衆生が歩いていく、色々な人やもの、出来事と葛藤しながら出合い直していく、そんな意味が弥陀にたすけられまいらすべし、にはこもっていると体解します。

 

往生を遂げられた高田慈照という和上が低い声でよく仰っておられました。

 

万人が平等に速やかに必ず無上の覚りを得しめられるのが浄土真宗の教えである、と。

 

たた念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、というよきひとの仰せは、自身の存在の危機において、初めてその真価を顕現する言葉であります。

 

極悪深重の衆生

他の方便さらになし

ひとえに弥陀を称してぞ

浄土にむまるとのべたまう(高僧和讃 源信讃)

※他の左訓 余の善、余の仏菩薩の方便にては、生死出でがたしとなり(親鸞和讃集 p133  名畑應順 岩波文庫

 

これで歎異抄聴記を終わります。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

 

歎異抄聴記⑨七地沈空の難を超えさせてくださるもの

念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。求むべき菩提もなく、度すべき衆生もない。(p258 歎異抄聴記 曽我量深師)

 

解ったという喜び。

 

確かにないわけではないが、ずっと握るものではない。握り続けると物惜しみに囚われる。手放したくない。他の者とは違うのだ、と。

 

ひらけがない。我執はうちに閉じる、篭る。

 

そうではない。

 

南無阿弥陀佛が自分の上に成就することは、自分は決定して凡夫であること以外にない、自分は一生涯何も悟ることはない、ということだろうと感じる。

 

つまり、云いたいのは、いくら心は浄土に遊ぶのだといったところで、自分の足元は娑婆であり、身は煩悩具足でありましょう、と。助からぬわれらでありましょう、ということ。

 

助からぬわれら故に助けて下さる本願が今ここにこの身に念佛にまでなってはたらいて下っている。

 

こういうことをいうと歓喜地で留まる人はすごく煙たがる。嫌がる。忌避し、遠ざかろうとする。

 

そうではない。それは独りよがりというもの。

 

師は仰る。助からぬ身に帰れ、と。

 

迷いに帰れ、と。

 

原点に帰る。

 

倦怠期を超えさせて下さるのは諸仏の勧進、つまり後押しであります。

 

師の教えに再び立ち返る。耳を澄ます。立ち姿を思い出す。そして、師のおすがたにまでなってくださった大悲を殊更に何度でも伺う。

 

そこには倦怠を透過させて下さるものがあります。

 

大事なところであります。

 

道に迷い、難儀したことがあるから、道を知るのです。覚えるのです。きっと師も迷われたはずです。

 

ここをくぐることで、いよいよ自分は全く助からぬ存在であることを徹底的に知らしめられることが始まります。

 

菩薩の階梯、八地、不動地から無功用に入ると云われます。計らう必要はない、と。

 

いよいよ如来の光明が助からぬ身を徹照して下さるということであります。

 

南無阿弥陀

 

2022/5/15追記

 

この記事がよく読まれているようなので今思いますことを記載します。

 

七地と八地では全く質が違うと思うのです。

 

七地までは、自分が進むという感覚。

 

しかし、八地からは、無功用、本願の

 

はたらきにより、凡夫ということがいよいよ知らされる。

 

この迷いはどうにかなるような迷いではなかった。

 

自分が迷っている、というよりは、自分が

 

迷いそのものである、というもの。

 

つまり、死ぬまで迷い続けるということでしょう。苦悩はなくならない、ということです。

 

ただし、苦悩が響く、響き合うことがあり、苦悩を抱えた衆生のひとりである、ということが、宝のようなものである、ということであります。

 

そして、もう一つ、既に照らされているということがあります。

 

確かに迷っているけれども、その迷っているわれらは本願念佛のはたらきが在す世界に座を与えられている、ということがあります。

 

これは、十地経に記載のあることであります。

 

2022/08/30追記

聴聞、聞法の停滞。真宗に限らず、

 

思考が停滞する、ということは経験があるのではないでしょうか。

 

殊に、真宗では、心境に酔うと視野狭窄、即ち衆生を見失う、と言われます。

 

実は衆生を見失うのではなく、自身を見失うのだと考えます。

 

すなわち、助からぬ身を具足している、ということを忘れている、或いは、本当に助からないということ、この煩悩はどうにかなるようなものでなかった、と

 

まだ知らされていないのだと思います。

 

恐らく、これは何度も何度もお座を重ね、念佛を申し、思惟し、現実の中に身を置く中で、ふと知らされていく、お育てのはたらきなので、時を待つ以外に

 

手立てはありません。僕のブログの特徴として、

 

八地 不動地というものをずっと考えていることがあります。

 

無功用、ということが信者めぐりという本を通して、より明らかにされてきました。

 

ソノママナリデタスケル、ということ、

 

往生も憑む一念も佛仕事じゃわいな、ということです。

 

特に、往生は佛仕事、という言葉です。

 

これには参りました。佛様の仕事の邪魔を

 

せず、自分は自分の分限に甘んじていくよりほかにどうしようもない、ということと

 

改めて教えて頂きました。

 

もし、ご縁があれば、十地経(中央文庫 荒牧先生訳)という本もご覧になって下さい。

 

真宗の念佛往生ということにも密接に関係がある内容だと考えます。

 

 

2023.7.19追記

 

やはり、七地沈空ということが真宗を学ぶ方々に思い当たるのでしょうか。

 

この記事をよくアクセス頂いているようです。

 

記事を書いて、暫くの時が経ち、今思いますことを追記します。

 

大事なことは、心境に酔わない、現実を見る、身を忘れないということだと感じます。

 

心境は移ろうものです。僕も大きな歓びがなかったわけではありません。

 

しかし、歓びは色褪せるものです。特にその歓びに留まろう、歓びを握ろうとした時、強烈な分別に陥りかねません。

 

解った、やっと解ったという歓び。

 

これは留まるべき処ではありません。

 

留まるべき所、足をおろし、腰をすえる

べき大地は凡夫の身であります。

 

ここに本願が念佛となっておはたらき下さる。

 

凡夫に還すのが南無阿弥陀佛であると言っていいと思います。

 

凡夫に還らしめられれば、われらが観える、われらと聞こえる。

 

本願に誓われているのは、十方衆生であります。

 

親鸞聖人は、いしかわらつぶての如くなるわれらと仰る。

 

つまり、助からぬ無明の存在がわれらであり、無明が響く、無明の存在故に響き合うことがある。

 

やはり七地と八地は、無功用、はからう必要がないという点が全く違うと言えるのだろうと感じることです。

 

 

 

横截五悪趣悪趣自然閉

「横截五悪趣悪趣自然閉」といふは、「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆえに行者のはからいにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超といふなり。横は竪に対することばなり。竪はたたさま、迂はめぐるとなり。竪と迂とは自力聖道のこころなり、横超はすなわち他力真宗の本意なり。「截」といふはきるといふ、五悪趣のきづなをよこさまにきるなり。「悪趣自然閉」といふは、願力に帰命すれば五道生死をとづるゆえに自然閉といふ。(尊号真像銘文 親鸞聖人 西聖典p646)

 

道綽禅師いわく、

 

もし弥陀の浄国に往生することを得れば、娑婆の五道一時にたちまちに捨つ。ゆえに「横截五悪趣」と名づくるはその果を截るなり。「悪趣自然閉」とはその因を閉づるなり。(安楽集 道綽禅師 西聖典七祖編p274-275)

 

釈尊親鸞聖人、道綽禅師、有縁の善知識の勧め、すなわち「汝念佛せよ」の仰せの御心を仏説無量寿経の御文と釈文によって頂く。

 

南無阿弥陀佛とは如来の本願力によって念佛申す者の五悪趣の因も果も閉じ捨てて、必ずわが国に往生遂げしめんという大悲の仰せであったのか。

 

タノメタスケルの仰せは横截五悪趣悪趣自然閉である。即ち、必ずわが国に往生果遂せずばおかない、絶対に往生させる、との勅命である。

 

これほど頼もしいものはない。因も果も閉じるのであれば、今ここで聞こえて下さる南無阿弥陀佛に助けられて往生させられるよりほかに道なし。そして、この身は必ず滅ぶ。故に必至滅度という。

 

経文の字面を読むのではなくて、経文にまで成って下さった必ず助けるという如来の大悲を経文、釈文から頂くのであります。

 

言葉を尽くし、尽くし、尽くし、大悲がわれ汝と共に居る、必ず信心を起こし、わが国に往生させるとの如来からの直接の言葉が南無阿弥陀佛でありましょう。

 

 

南無阿弥陀