忍耐は徳目である。と最近感じる。
徳目の基礎というか、土台というか。
あまりに便利になりすぎて、携帯一つ、
ネットで何でもできて、何でもわかるかの
如く錯覚しがちだがら、わかったというのは
身について、初めてわかったといえるので
あり、検索して、言葉を見て理解したことと
体解するということとは別のものだ。
再現性、深化、展開。
体解にはこういう動きを伴う。
時を待つことは、辛抱強さが要る。
思い通りにならないことは辛く、虚しい。
しかし、物事が実を結ぶには、熟すという
ことが必要。熟すには時が要る。
励まし、この道を往けと発遣して下さる方も
いなければならない。
自分一人の力などちっぽけで、できることは
限られている。
支えてくれる人、理解しようと耳を傾けて
くれる人、共に苦難を受けてくれる人。
そういう人を友というのでしょう。
時が熟し、友、師に遇った時、自ずから
醒める。醒めて初めて、あまたの恵みと
許しに気づき、人間であろう、人間に
なろうという道が始まる。
こういうすがたをとるのが、
求道ではないかなぁと思われます。
今は、道と共に在り、励まされつつも、
悲しみに沈み、煩悩に引きずられている。
それでも、現実を聴聞の場として、
有縁の人とやりとりしており、
まだ道を求めて、耳を澄まし、
目を凝らしている。