むなしさとともに

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地獄について

地獄について思う。

 

地獄は世界があるのではなくて、自分の居る場所において、自分が感得するものであろう、と。人間界は六道の相があるという。この言葉にも感じ入るものがあるが、別の機会とする。

 

どうしてもそこに居れないところを地獄という、と師は仰る。

 

このことは自分にも思うところがあり、僕は現世で地獄を経験したことがある。

 

 

地獄とはなんぞや。

 

居り場がない、必要とされないことを地獄という。自分の名を呼ばれないことも含むかもしれない。

 

そして、僕は耐えられずに、地獄から逃げた。そして、死のうかと思った。どうしたらいいか、真っ暗になったが、死人のようにただ生きていたという時期が5ヶ月ほどあった。31歳の頃である。

 

場所は場所で、同じ場所、ずっと居た場所なのだが、変異してしまう。それは年齢や職位、役割の変化によって、役割がなくなってしまう。

 

その場合、自分の役割を自分で考え、自覚し、自分で立回らないといけない。

 

しかし、プライドが邪魔をし、身動きがとれない。ただそこに居る状態に陥る。

 

殊に職場は仕事をしに行く場所であり、成果、利益に結びつく何らかの行動を要求される。

 

そして、世の中はかなり早いスピードで変わっていく。変化に対応するためには気力も要るわけで、その面でもかなり厳しい。

 

しかし、時間は随分あったはずなのだ。十分にあった時間において、結局のらりくらりしてしまい、人を育て、教育することもしなかった。結果的に怠けてしまったのだろう。

 

だから、やむを得ないことであると僕は観ている。むろん、どうすればいいかを考え、やりとりしてきたが、

 

結局、役割を選り好みしてはだめなのだ。

 

地獄を経験したからこそわかる。社会に居る以上、今ここで自分にできることを手を抜かずにやり続けていく、自分の次の人のためにできることを今から仕込んでいく、有縁の技術を学び、身につけ、実践することをやめてはいけない、と。

 

年齢によって役割やアプローチの仕方を変えるのは当たり前のことで、頭を使わなければならない。

 

最近、地獄とは一体なんだろうかと思うことが多く、筆をとった。

 

僕自身はいつか役割がなくなることをすでに覚悟している。自分の仕事を自分がし続ける必然性、根拠はどこにもないからである。だから、一所懸命役割に向き合っている。その結果がどのようになるかは伺い知らぬことである。

 

常に喚んで下さる方がいなければ、自分のように弱い者は、とてもここには居れそうにない。ここは真の場所にはならない。帰るべきところに帰らねばならない。

 

ここは限りある処である。この苦も寂しさも何者とも分かち合うことはできない。

 

それでもなお学びの足は止めてはいけないと思う。よく観る、よく聞く、よく聴く、よく感ずる。

 

不動にして動が如来であるという言葉が一昨日の法話の中で響いてきた。

 

 

 

立つ鳥跡を濁さず。心しておきたい。

 

南無阿弥陀