今、帰りの電車の中です。
最近は更新が滞りがちですねぇ。何となく書きたいことが思い浮かばないのです。
僕には殊勝な心がないので、誰かを教化したいという思いがありません。
信仰や哲学を希求する、必死になって探すというのは、時節によると思うのです。
段階を経なければならない。喉が渇いていない人は水を飲みたいと思わぬのです。
いくら水を差し出したところで、水の湧く場所を教えても関心の外です。
飢えなければならない。
何に飢えるのかというと、自分はなぜここまで苦しまねばならないのか、自分の生存に何の意味があるんだ、ということ。
僕がなぜ4歳から無意味さに苛まれたのかはわからない。そして、今もむなしさと本当は何の意味もないことに潰されそうになるけれども、葛藤してやり過ごしているわけで。
煩悩具足という事実は自分の力ではどうしようもありません。全くの無力です。縁に催されれば動かずにはおれない。
助からぬ者を助からぬと知らしめる光であります。光がまします故に助からぬ者と認知させられるのであって、認知するのは自分の力ではありません。
今はただ智慧の名を称え、聞くだけで、他には何もありません。
自分は自分をやる、それだけです。意味や意義などありません。今はそれで満足しています。また、満足できなくなっても一向に差し障りはありません。
無碍の光明は常に今ここに貫き穿ち至り届いて下さっているからです。
南無阿弥陀佛