むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2018-01-01から1年間の記事一覧

七地八地の水際

大切なことは、煩悩を離れることはできないということ。すなわち決して助からぬこと。 そして、煩悩具足、いしかわらつぶての如くなるわれらであること。 七地ではまだ躊躇がある。 八地にはもはや躊躇はない。ひたすら行ずる。 体当たりである。 七地までは…

共に苦悩の凡夫である

いしかわらつぶての如くなるわれら。 親鸞聖人の言葉はあたたかい。 このわれらという言葉の響き。そして、 凡夫という智慧の言葉。 共に苦悩の凡夫たるわれら、阿弥陀如来平等の大悲に摂取され共に往生遂げたし。 十年前、相田みつをさんのこの言葉も大事な…

煩悩を憎まない

煩悩を憎み、叩きつぶそうとしていた。 阿弥陀如来の智慧は煩悩を菩提に変えなしてくださる。 煩悩がなかったならば念仏申すこともなかっただろう。 むなしさがなかったならば、これでよいのだろうかと思うこともなかっただろう。 煩悩即菩提。生死即涅槃。…

諸々の衆生とともに

メダカを飼っています。 彼らは泳いでいるだけで、生産的だと言えないものでしょう。 しかし生産的とはなんだろうか? 僕は知らない。わからない。知りたくもない。 彼らが死んでしまうとただ寂しいし、ただ悲しい。 ただ共にいれたらそれでよい。何人も僕と…

地獄を超える

地獄にいるとしよう。 なぜ地獄か。答える。希望を見出だせぬ故に。 地獄を超えるとは何故ぞ?答える。 我すでに光を蒙る。我すでに光を見出す。 光とは何ぞ?答える。如来なり。一切衆生なりと。 もはや地獄を恐れる必要はない。 何故に?一人ではない故に。如…

念佛に何度でも帰れ

迷いは死ぬまでとれないと親鸞聖人は仰る。 だからこそ助けるの仰せ、即ち南無阿弥陀佛、念佛に帰れ。 そこにはいつでも大悲が待っている。 何度でも信の一念を繰り返す。 難儀で救われようのない現実を堪えしむる、 これが念佛の大悲である。 南無阿弥陀佛

信心の純化と柔軟心の成就

藤谷秀道先生のことばです。 十地経が初歓喜地から法雲地まで述べられて いることにも関わってくると思うのですが、 たとえ信心決定しても、煩悩を具足、即ち 身にまとっていることは変わらぬのです。 それどころかいよいよ深く、浅ましいことを 如何に知ら…

願生彼国

わが国に生まれんと欲え、は本願の心。 それが至り届き、念佛の信心、善知識に お育て頂き、阿弥陀の国に生まれたい、即ち もはや我涅槃も欲さず、諸々の衆生と ともに往生したく、一切衆生往生せずば我 涅槃に入らじ、という微かな光が見える。 これは願生…

求道者

有縁の先生方に言えることは、先生方自身が 未だに求道しておられることである。 自分と倍年が違う先生も、未だに念佛往生の お心をお聖教を通して尋ねておられる。 立ち止まらない。 正しく善知識である。有り難いことである。 南無阿弥陀佛

閉塞諸悪道-地獄を超える

共に往生遂げたし。 一切衆生往生せずば我如来にならじという願は何処から来るのだろう。 自分の中にはこんな尊い願はない。 もしあるとしたら、やはり如来の本願力に よるのだろう。 自分は助からなくてよい。 もう自分は十分よくして頂いています。 常に如…

不退転の相ー知進守退

進むを知りて退くを守るを「智」といふ。 (曇鸞大師 往生論註 注釈版聖典 七祖編 p145) このところ、停滞というか沈滞というか、 ことばを探しているような気がします。 不退転という言葉を聞くと、一直線にまっすぐ進むような気がしました。 しかし、本当…

名無往生文  聴聞

聴聞すべきことは、ただ一つ。 如来は、わたしに対して、何と仰っているか? タスカラヌ者に何と仰っているか? タスカラヌ者だからこそ、必ず往生させる、と告げ知らせるのが、 この浅ましい口から出てくださり、 今耳に聞かしめられる南無阿弥陀佛であろう…

名無往生文 大乗 浄土真宗

煩悩はそのままである。 煩悩がなくなるわけではない。それどころか、いよいよ煩悩が深い。 浅ましいわが身の現実はいよいよ悲惨である。食べること、差別し、区別することを やめることができない。むしろそれを楽しんでいる。 埋没している。埋没とは、す…

愚者なりて往生す

親鸞聖人がご晩年に法然聖人から聞いたことを ご述懐されたお言葉です。 このお心を尋ねますに、念佛に帰れということでありましょう。 分かったような気分になる。助かったような気になる。 自分の思いはいらんのであります。 自分が助かるか助からないか知…

名無往生文 真実報土

浄土は方向である。 浄土はあってもなくてもよいものではない。 なければならない、どうしても願わずにはおれない世界である。 人生は苦である。人間、自分は苦を孕んでいる。苦を身としている。 人間は苦を感受しうる存在である。なぜ人と生まれたか。 大悲…

月明かりを見て

光に一切へだてなし あさましき身の我にさえ 慈悲の光明あたたかく 智慧の光明清らかに 届いて下さる 弥陀の喚び声 浅ましい日暮しをやめることができない。 奪わずに、騙さずに、隠さずにはおれぬ自分のすがた。 すなわち助かりようが微塵もない。 だが、如…

名無往生文 八地 不動地

十地経にのたまわく、八地以上の菩薩の行は無功用である、と。 わたくしが考えまするに、七地以前の菩薩の眼目は自利である。 自利には限りがある。広がりと深さがなく、我執の習気を感じる。 聞其名号、大悲が届いたとき、大いなる歓喜が起こる。 それは刹…

名無往生文 佛徳讃嘆

親鸞聖人正信念佛偈にいわく、帰命無量寿如来 南無不可思議光 天親菩薩 無量寿経優婆提舎願生偈にいわく、 世尊我一心帰命尽十方無礙光如来願生安楽国 わたくし名無にいわく、 われ無限なる如来の大悲に帰命せしめられ、今ここで念佛を申し、耳に聞かせて頂…

名無往生文 われら人間の観察について

人間は多面的存在である。立体的である。 多面的とは次のような意である。 わたしは子である。わたしは兄である。わたしは孫である。 わたしは日本人である。わたしは男性である。わたしは父である。 わたしは祖父である。わたしは「役職」である。 気づくべ…

名無往生文について

浄土真宗において、タスケラレル法はすでに南無阿弥陀佛として 仕上げられています。しかし、われら衆生には機縁が 熟すまで南無阿弥陀佛を信受することが起こらない。 衆生に起こらないということは自分も助からないということである。 大乗の菩薩は無住処…

名無往生文 不退転について(位と行)

現在は西暦二○十八年八月の候なり。時は末法の頃なり。 佛教、われらが浄土真宗に言われるところの不退転に二の側面あり。 これ自身に已証されたところの功用なり。 一つには地不退という。凡夫地不退ともいう。 正しく自身は煩悩具足の凡夫、我生死出づるこ…

本願を証しする

弥陀の本願は見えない。今は如来を直接拝見することはできない。 教えはあるが、行がない。行ずる力がない。 法は弘めるものでなく、本当に教化を受けた人から自然に弘まるもの。 如来は我らに要求している。 法を証ししてくれ、と。法を表現してくれ、と。 …

無功用

達磨大師の言葉に、無所得があると聞いております。 曽我量深先生の言葉に、回向は表現であるというものがあります。 往生は表現であると僕は思います。そして、それを表現する人を 諸仏に等しい方々だと思います。そして、その方々は今も満ち満ちて おられ…

無明の闇を破するゆえ智慧光仏と名づけたり

この人はあなたにとっては、取るに足らないただの人かもしれない。 しかし、僕にとっては、かけがえのない、唯一無二の大切な人である。 僕はあなたの大切な人はわからない。 あなたは僕の大切な人がわからない。 互いにお互いの存在の尊さ、大切なものが何…

本願招喚の勅命

帰命は本願招喚の勅命なり(顕浄土真実教行証文類 行巻) 私のようなものは、如来の御名を称える資格はありません。 私のようなものは、煩悩と生死から離れることができません。 私のようなものは、誰かを傷つけずに、あるいは何かの命を奪わずに 生存するこ…

澄んだ瞳

夕暮れ時にすれ違った黒い盲導犬の瞳を見る。 彼は全く主人の目となっている。 横に寄り添い、黙っている。 彼は主人と一つになり、彼の眼は赤い夕日に照らされ、 透き通り、尊く澄んだ輝きを放っていた。 思いがけず、念佛を申さざるを得なくなった。 自分…

往生は慈悲の表現

法は広めるものではなく、 最も如来から教化されたひとを通して、 広まるものである。 これは真宗大谷派、和田稠先生の 真宗門徒という本の中にでる一節です。 僕にとって和田先生は往生の先生。 往生は念佛生活であり、具体的現実、 実際の生活で如何に浄土…

弥陀の本願

選択本願念佛とはわたしの原点であり、一切衆生の原点である。 自分は凡夫である。故に何度でも本願念佛の道から曲がっていく。 常にわが心身への楽を中心に考察し、行動する。 この身を具足している以上、煩悩を避けることはできない。 かといって、煩悩に…

喪失を機縁に

災害に被災するという感覚が分からなかったが、 こういうものなのだなと身を通して感じた。 言葉に出来ないが、ずっしり重いというか。 家族や親戚友人知人には直接的な被害は なくても、見慣れた景色や図書館を 思えば、なんとなく今日は胸が苦しかった。 …

無力さと非情を思う

有縁の地が豪雨で被害を受けた。見聞した場所が冠水した様子を見ると、心が痛む気がする。今は遠い地にいるし、そこに出向いたところで何ができるだろうか。またつくづく自分の非情さも感じる。この身と自分の心にはあたたかさがない。遠い。全然共感性がな…