むなしさとともに

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2017-01-01から1年間の記事一覧

無明を破る

無明の闇を破するゆへ 智慧光佛となづけたり 一切諸佛三乗衆 ともに嘆誉したまえり(浄土和讃) 釈迦如来は、一切有情の苦悩の根本原因を「無明」の故にと仰った。 この無明は深淵であり、これによって、無始乃至今日今時に至るまで、 流転し続けるのである…

本当に生きることが難しい

むなしさは、どうにもならんですね。 おそらくは、すべてに意味や価値を見出したいのでしょう。 しかし、如来は汝は迷いの凡夫なり、と仰る。 ここは迷いで、あちらは真実を求める、とかいうのではなくて、 一切が迷いであると仰る。一切とは例外がない、す…

お同行の言葉

土徳と善知識に育てられたお同行の言葉は、 たとえ理性的ではなくても、しみこむように感じる。 仏法を聞いたら、ちっとはましな人間になれるかと思っているが、 どうでしょうか、と尋ねたら、先生は「あんたは諦めなはれ。 ただ念佛申しなさい」と仰ってく…

念佛往生の誓願

念佛申す者、すなわち、我が名を称えるものを 必ず我が浄土へ生まれさせる、間違わさん、という誓いである。 我が名を称えるばかりで、必ず助ける。 この言葉は我らの世界における、ぎりぎりの如来の表現である。 形から心を頂く。かたちなき法性が、自己を…

光明のはたらき

白を黒に、黒を白にするものが光明のはたらきではない。 白を白と、黒を黒と、そのもの自体の存在全体を照らし出だすはたらきを 光明というのだ、と体解する。 悪性を悪性と、自己中心を自己中心と、凡夫を凡夫と知らしめる。 如来のはたらき、智慧とよぶの…

外道

光は照らすものであり、そのはたらきは、照らされたものを 見せつけるものである。 知らなかった。自分が全くの外道であることを。 どんなに聞いても聞いても佛道を歩むことができない。 そもそも迷いの中を出たいという気持ちがない。皆無である。 望んでい…

右手左手

右手でめだかにえさを与える。 左手でなべに鰹節を入れて、だしをとる。 何をやっているのか。矛盾そのものが自分である。 矛盾しているぞ、と告げ知らせるはたらきを智慧という。 南無阿弥陀佛

南無阿弥陀佛

南無阿弥陀佛はまことのかたち。 かたちが心を貫く。 貫いた心はかたちをどこまでもまことに仕上げていく。 貫いた心を、如来の一心という。 あぁ尊いまことのかたち。 無量寿命、無量光明よ。はかりなきいのちとひかりのまことよ。 かたちがなければわれら…

光明とは智慧、照らすはたらきとおっしゃる。 照らすとは暗がりを浮かび上がらせるものである。 暗がりとは何か、自分の心の動き、現実の姿のありようのことを指す。 すなわち、暗がりを暗がりと指し示すものを光明という。 暗がりは暗がりである、というと…

風が吹いている

風は目に見えない。 しかし、風は吹いている。どうやって風を認識するか? 身体で感じる。木々が揺れている。その相を通じて、風を知る。 大悲本願の風が吹いている。そこに念佛の響きがあるではないか。 形には必ず心がこもっている。これが本当に大切なこ…

無限大悲

無限の大悲をもって、無限に世間を安慰す(勝鬘経義疏 一乗章) 無限の大悲に相応する。 相応とは彼の佛の御名を称え、聞くこと。 称えさせ、聞かしめて、往生させ、成仏せしめるはたらきを 如来の本願力といい、このおはたらきを他力という。 自分が凡夫で…

一寸お休みします

別に書くこともないのですが、ちょっと休みたいと思います。 何となく、ちょっと疲れたのです。だから立ち止まります。 でも、一週間も経たないうちに、また書いているかもしれませんし、 書かないかもしれませんし、それはよく分かりません。 僕は適当です…

むなしさから逃げない

むなしい、という感情は静かだが、執拗に流れてくるもので、 何の意味があるのか?ということを突きつけてくる。 そして、それに負けて中々行動、実行することができない。 それは、昔も今も同じなわけで。 たとえ如来に出遇ったとしても、それは決してなく…

智慧海のごとくならん

三帰依文を拝読すると、このご文が出てきます。 自ら法に帰依したてまつる、まさに願わくは衆生とともに、 深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。 弥陀の名号称えつつ 信心まことにうる人は 憶念の心常にして 佛恩報ずるおもいあり(ご和讃) ひとりだけ…

第十八願の心

もし、十方の生きとしいける者が、たった十声なりとも、 わたしの名を称えて、わが浄土へ生まれることがないようならば、 この法蔵は決して如来には成らない。 たった十声なりとも、わが名を称えた者を、決して見捨てない。 必ずわが浄土へ往生させる。 称え…

大乗の魂

安田理深先生のお話(浄土の教学:東本願寺出版のCD)の中に 「大乗の魂」と云う言葉があった。 この言葉を自分なりに味わうことは、 あなたが助からなければ、私も助かりません、ということ。 十方衆生とは、あまたの衆生ではなくて、そのいちいちの衆生、 …

力が入っていたなぁ

3月ごろある座談会にて、何とか伝えられないか、自分が頂いているところは 伝えなければ、と思い、ずいぶん力が入ってしまっていた。 結局は、自分が分かっているつもりになってしまうのだと思う。 今はどうやと言われれば、今もそうなのかもしれない。 た…

金剛心は如来の心

逆らわずに、素直に任せるは、随順の心。 過ちを認め、恥じるは、慙愧の心。 この心、わが心にあらず。これ如来がわれらがために成就し、 回向してくださる、如来の心。 この心、不壊不滅常住につき、金剛心と申す。 念佛の声を通して、如来の無限大悲が、わ…

ひたすら聞く、教えを請う

お念佛は聞きものです。称えるということは、そのまま聞くこと。 尊敬する先生がよく仰ることであります。 ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの 仰せをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり(歎異抄第二章) この言葉が真実であることを…

即とはそのまま、ということだと思う。 八地以上の菩薩はこの境地を実現するという。 聖徳太子、あるいは華厳経、十地経の教えから伺うに、 七地と八地の間にも断絶があるらしい。 藤谷先生はよくお話や書物の中で、七地沈空の難ということを 仰っている。 …

浄土の教え

もしも自分に世間との違いがあるとすれば、 それは念佛ひとつで事足りるということだと思う。 世間のことに埋没したい、うまくやりたいという思いは 今も頭を離れない。 けれども、それは本当に大事なことではないと 薄々気がつきつつあって。 それはきっと…

佛名をたもて

親鸞聖人の仰せは、ただ佛名をたもて、これだけ。 自分の心に尋ねるのではなくて、親鸞聖人に尋ねればいい。 釈迦如来、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、有縁の先生。 一貫して仰るのは、佛名をたもて。 これ以外に諸佛善智識が仰るべきことはない。 自分も本当…

最初から憑みにしない

ひとは、業縁存在である。 どんなに素晴らしいひとであっても、 どんなに仕方のないひとであっても、固定的な存在ではない。 因は無量永劫の生をもって、具足している。 縁は選ぶことはできない。このことを煩悩成就、緊縛と仰られるのではと思う。 思い通り…

電車の中で

電車の中で隣に座った学生がプリントを持っていた。 初期仏教の何とかかんとか。 ちらりと見る。 『中道』の文字。 佛さんのお育てはすごいもんだなぁ。わらけてくる。 佛さんは「それ」になって語りかけてくる。自身は法身なので、 あえて「それ」や「だれ…

迷いに埋もれるままに如来の大地におった

毎日のひぐらしは因を作っているような気がしていたが、 実際は果である。 迷ってきた証は、この身である。人間として生まれてしまったことが 迷ってきた結果である。 一切が無明住地の因縁に依って起こり、それによって考え、 それによって、生きてきた、生…

即横超截五悪趣

即横超截五悪趣と云う言葉が気になります。 何気なく読んでいた正信念佛偈のご文でしたが、このお言葉は ただごとではない。 横超が浄土真宗、他力念佛の本意。 悪趣自然閉、閉塞諸悪道 通達善趣門。 われらが流転するのは、三毒の煩悩が原因ではない。 無明…

大切なことは何か

本当に大切なことは何だろうか? そんなことを思う。しかし、日常は常に自分のものさしに 流され、気がついたら、身が動いているということもあるし、 殺生を幾らやめよ、と仰られても、それを止める力がありません。 残念ながら、自分は人の身を生きている…

夜道のセミ

夜道を歩く。 影が動く。あっ、セミだ。 土から出てきて、もぞもぞしている。そこは歩行路。 踏み潰されてるのを見るのがいやだ、手を伸ばすともぞもぞ上ってくる。 少し腕をよじ上る。殻に成虫の兆しが透けている。 このセミは何歳だろうか? 木に置くと、…

いつまでも、どこまでも

いつでも、どこでもと思っていたが違っていた。 (170719追記 違うというのは、その意味だけではなかったということ。 つまり、いつまでも、どこまでもに包含された、いつでも、どこでもで あるということ) 如来の大悲は、いつまでも、どこまでも。 必ず助…

聖徳太子

親鸞聖人がどうして聖徳太子を讃嘆されたかわからなかった。 夢のお告げだけとは思えなかった。 太子の著作を初めて読んで驚いた。 太子は佛のお心が分かっておられた方とは知らなかった。 希有の心を生ずとは、常住を聞くを謂うなり。 通じて論ずることを為…