むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

念佛

念佛に打ち込むべし

わが思いはからいに囚われることなく、 ひたすら一途に専ら念佛すべし。 念佛は大悲のかたちなり、 かたちなきものがかたちをとってあらわれて くださったまことのかたちなり。 念佛の出処はすべて法蔵菩薩の願心。 一念一刹那も清浄ならざることなし。 され…

行が問題だ

具体的現実で問われるのは、実践、即ち 行である。対己に関しては、唯念佛一行、 これのみである。 対他者に対する具体的実践が、 六波羅蜜である。 軟らかい言葉。孤独と無関心への忍耐。 差入。 自分自身を賭けて念佛を表現する、 阿弥陀佛の本願が実在す…

溺れる夢

濁流に流され、川底に引きずり込まれる。 息が吸えず、苦しい。誰かが足を引っ張る。 溺れた人は自分だけではなかった。 大勢の人が濁流に呑まれ、自分もまた 沈んでいく。 味わった息苦しさと足を掴む力は 生身で感受する以上に現実味を帯びていた。 さて、…

助かるということ

念佛称えて助かるのではない。 如来を信じて助かるのではない。 念佛にまでなって下さった大悲。 助かるまじき存在たる我を助け遂げずば おかないとまで誓って下さった 大いなる大悲の願心。これを聞く一つで、 行信、他力の大菩提心まで回向して下さる。 こ…

マシだと思う心(追記あり)

A>B A=自分 B=他者 できないより、できる方がいい。 ないより、ある方がいい。 自分はあの人よりマシだ。 この心が流転の根、地獄の元であろう。 死骸のような心。腐り切った心。 どうしてもこの心を離れることが できない。故に無始より流転しているから…

聖胎長養

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/聖胎長養 また言わく、信は道の元とす、功徳の母なり。 一切もろもろの善法を長養す。 (親鸞聖人 顕浄土真実教行証文類 信の巻) 華厳経のお言葉を引かれておられる。 念佛往生とは念佛の信を長養することだと 思う。現実…

常行大悲

佛さまが常行大悲の方であり、 自分は専ら佛さまの行を蒙るのであった。 お念佛の相、まことに大悲である。 独りでも独りではない。 南無阿弥陀佛

心境に用事なし

疑心あることなし、これを聞というなり、 と親鸞聖人は仰った。 若不生者の誓いゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生必ずさだまりぬ 歓びに浸った時もある。 浅ましさに眠れなかった日もあった。 有難い心も有り難く無かろうと 共に用事なし…

変化は面白い

変わることは面白い。 変わることは動くこと、反応したり、 適応すること。 ただし変わらぬ軸を獲た上で、 敢えて変わることを選ぶことと、 流されて変わること、即ち、 変わることを忌避するけど、変わらざるを 得ないのとでは、相が同じでも意味が異なる。…

一歩ずつ

佛性覚醒は大悟に非ず。 このお言葉は以前、書いた寂静禅経の ものです。 信心決定と先の佛性覚醒はイコール、 即ち等しい言葉であると感受します。 そして、こういうことも仰る。 佛性覚醒を大悟と誤認しやすい、と。 浄土真宗でもこの点をよく噛みしめる必…

わが名を称えよ

阿弥陀佛の本願は、 わが名を称えよという本願である。 われらからすれば、聞名である。 南無阿弥陀佛を 称えさせ、聞かせて、信じさせ、往生 させ、成仏せしめる。これが他力の おはたらきである。そして、 大悲念佛を通して智慧の信心が発起する。 誓願不…

方向

本当に煩悩しかない。 具足というお言葉が身に滲みる。 煩悩具足の凡夫。 しかし、方向はある。 わが名を称えよ、という本願からの道。 この道を尋ねればいい。この道は 浄土に通じている。なぜなら 浄土から至り届いて下さる道だからである。 南無阿弥陀佛

念佛に極まる

念佛は大悲の相。 相に如来の心も行もこもっている。 もはや自分の心や有様に囚われず、 ただ、わが名を称えよの仰せ、助けずば おかないの仰せを聞き念佛を申す。 この選択本願念佛の一行をたもつ。 念佛から一切の行が溢れてくるが、 一切はわが力で行ずる…

念佛を申す

先生はいつも仰る。 今ここで念佛を申し、耳に聞く。 親鸞聖人、法然聖人は専修念佛、常念佛の お方であった。現在の浄土真宗では、 選択本願念佛を専ら行ずる、 無量寿佛の御名をたもつ、念佛行を軽んじて いる。今ここで口に声に出て下さる お念佛を聞く。…

南無阿弥陀佛

お念佛が今ここに至り届き聞こえて下さる。 ただそれだけで満足だ。わが心身の 有り様に微塵の用事なし。 南無阿弥陀佛

念佛往生のすがた

往生とは実践、生活であり、相続である。 一念の信を生活を通じ、体当たりを通して、 繰り返し巻き返し何度も何度も確かめさせて 下さるのが、念佛往生である。 体当たりとは、目の前の現実を凝視し、 ことばを和らげ、忍耐をたもつ、 悪口を肚におさめるこ…

唯信仏語決定依行

親鸞聖人、愚禿鈔にいわく (西本願寺真宗聖典p522-523) 第五には、 唯仏語を信じ決定して行による、と。 第五の唯信仏語について、三遣、三随順、 三是名あり。 掘り下げて確かめる。 親鸞聖人は結局何を伝えて下さったのか? 唯仏語を信じ決定して行によ…

聞法のはじめ

今年最初の聞法のご縁だった。 まず誓願ありき、誓いの御名ありき。 専修念佛。まずお念佛を申し、耳に聞く。 聞名をたもつ。 称えやすくたもち易い形にまで仕上げた 念佛を聞く。 形なき大悲が敢えて形をあらわしたのが 一声の念佛なるぞ。 善知識の仰せ、…

往生わが分限にあらず、如来の分限なり

いくら頑張っても人間には分限がある。 なんぼ考えてもわからない領域がある。 念佛の信心起こるは ひとえに法蔵菩薩の願心に依る。 念佛往生をたもち、果たし遂げるは ひとえに弥陀の住持に依る。 わが名を称えよの仰せに従い、念佛を申し、 聞くのがわが分…

真実に出遇う

人間は真実を掴むことはできない。 即ち有限なる故に。 真実は無限なり、はかりなきいのち、 はかりなきひかりと仰せられる。 掴むこと能わずとも値遇することは できる。即ち乃至十念若不生者不取正覚の 誓いに帰命する一念の信心起こるとき、 摂取不捨の大…

知らせたいことがあるから、呼びかける。 召喚とは、喚ばふ、喚びづめである。 わざわざ名となり、声にまでなって、 南無阿弥陀佛と呼びかけて下さる。 文句のつけようがない。 南無阿弥陀佛

不可思議光如来

無量寿如来に帰命し、 不可思議光に南無したてまつる(正信念佛偈) 聴聞の場に座らせて頂くと、ふと、思う。 なんで阿弥陀佛の本願を聞いているのだろうかと。 なぜ今、この場にいるのだろうと。 全く分からない。 しかし、佛法に照らされるところの自分は …

迷ったら帰ればいいんだよ

迷ったらいつでも大悲に帰ればいい。 大悲の相が南無阿弥陀佛。 念佛を申せばなむあみだぶつと聞こえる。 その言葉は如来回向の大行。すなわち、 共に居る、必ず往生させる、任せよの仰せ。 いつでもどこにいようとも、助けるの仰せは 変わらない。 念佛を申…

課題と並行して進めていきます

課題は課題として、しっかり考えますが、 僕自身は何者にも縛られずに、 自由に念佛の信心を確かめていきたいのであります。 流れるままに、徒然なるままに。 本当に求めていたこと、今も求めていることは、 まことの自由・まことの平等・まことの連帯。 こ…

声のほとけさま

11月1日、ブログを始めてから丸三年の月日が経ちました。 こんな妙なブログを、どんな方がご覧になっているのでしょうか? 少し興味があります。もし良ければコメントで教えて下さい(笑) さて、これまでを振り返りますと、 よく一年過ごせた、生き延びれた…

東山魁夷という画家の作品に、「道」というものがあります。 描かれた道は、これまで辿ってきた道でもあり、 これからまだ続いていく道でもある。 東山氏はこんなふうに仰っていた。 阿弥陀佛の本願は如何なる衆生であっても、 その存在に対して垂直かつ不断…

煩悩を憎まない

煩悩を憎み、叩きつぶそうとしていた。 阿弥陀如来の智慧は煩悩を菩提に変えなしてくださる。 煩悩がなかったならば念仏申すこともなかっただろう。 むなしさがなかったならば、これでよいのだろうかと思うこともなかっただろう。 煩悩即菩提。生死即涅槃。…

念佛に何度でも帰れ

迷いは死ぬまでとれないと親鸞聖人は仰る。 だからこそ助けるの仰せ、即ち南無阿弥陀佛、念佛に帰れ。 そこにはいつでも大悲が待っている。 何度でも信の一念を繰り返す。 難儀で救われようのない現実を堪えしむる、 これが念佛の大悲である。 南無阿弥陀佛

信心の純化と柔軟心の成就

藤谷秀道先生のことばです。 十地経が初歓喜地から法雲地まで述べられて いることにも関わってくると思うのですが、 たとえ信心決定しても、煩悩を具足、即ち 身にまとっていることは変わらぬのです。 それどころかいよいよ深く、浅ましいことを 如何に知ら…

願生彼国

わが国に生まれんと欲え、は本願の心。 それが至り届き、念佛の信心、善知識に お育て頂き、阿弥陀の国に生まれたい、即ち もはや我涅槃も欲さず、諸々の衆生と ともに往生したく、一切衆生往生せずば我 涅槃に入らじ、という微かな光が見える。 これは願生…